· 

私のドリームキラー

 

皆さん、こんにちは。

 

理事の橋本です。

 

今日のブログは、私が遭遇したドリームキラーについてのお話です。

 

そのドリームキラーは、私の人生における3つの大きな岐路に現れました。

 

第1回目は、私が18歳の時。

 

もう、34年も前のことです。

 

当時、私は愛知県のとある港町で暮らしていました。

 

3流高校に通いながら毎日遊び惚けて、ただただ居心地がよく、楽しい日々を過ごしていました。

 

高校3年生になり、さすがにこれから先のことを、漠然とでも考えるようになって行きました。

 

そしてなんとなく「このまま(地元に)いたらダメになる」「何か環境を変えないと・・・」「今までを断ち切らないと・・・」。

 

そんなことを思うようになりました。

 

そんな中で、行ってみたい大学や将来進みたい道が見えてきたのです。

 

そこで単身で地元を離れ、東京で浪人生活を送ることを決心しました。

 

ただ、賛同者はほぼ0。

 

多くの人に「無理でしょ」と言われました。(当時通っていた高校の大学進学率などから考えると、当然と言えば当然)

 

特に東京行きを反対したのは親と兄でした。

 

それでも強行しました。

 

やってみて、これまでの人生で一番長く感じた一年で、経済的にも精神的にも非常に辛いものでした。

 

結果は、何とか志望校に合格。

 

この体験は私にとって、とてつもない自信となりました。

 

「やればできんだ」って思え、人生がガラッと変わった瞬間でした。

 

 

ドリームキラーが2回目に登場したのは、その翌年。

 

思い描いていたキャンパスライフとのギャップに、モヤモヤしている時でした。

 

時代はバブル絶頂に向かっていて、新規スポーツクラブが乱立している時。

 

とあるクラブから「うちに来ないか?」とお誘いをいただきました。

 

私は大学を辞めて、そのクラブに行くことを決めました。

 

大学入学を喜んでいた母親は当然猛反対。

 

母の想いは感じながら、申し訳なく思いながら、ここでも強行し新天地に向かいました。

 

結果、18年間勤め上げ、指導者としてもビジネスマンとしても、自分なりに納得いく成果・結果を残すことが出来ました。

 

新設&単体クラブであったため、ある程度自由度があり、窮屈でなかったのが私に合っていたのだと思います。

 

バブル絶頂期に大学を卒業し、そのまま大手クラブに入って「組織の部品」となっていたら、きっと成果・結果を手にする前に辞めていたような気がするのです。

 

私は本当に運がいいようです。

 

そして、ドリームキラーが最後?に現れたのが、その会社を辞めて独立起業する38歳の時でした。

 

ここでも賛同者0。

 

反対派の筆頭は、またもや母親でした。笑

 

当時生活に困ることはなかったし、社内でもそれなりの立場にありました。

 

子供の頃を一番知る母親からしたら「ようやく落ち着いた」と思った頃だったのかも知れません。

 

母の大反対は至極当然と、今でもそう思います。

 

それでも、また私は強行しました。

 

そして、今があります。

 

本当に運がいいと思うし、守られているとも感じます。

 

でも、人生の大きな岐路において「自分で決断してきたから今がある」とも思うのです。

 

もし、全て母の言うとおりに行動していたら・・・と考えるとゾッする時があります。

 

もう、4回目の出現はないと思いますが、もしまたドリームキラーが現れたら、その愛情の深さに感謝をしつつ、また自分で決断しようと思っています。

 

だって、たった一度の自分の人生なんだから・・・。